満谷国四郎-新収蔵品と雑誌挿絵をまじえて 第2篇

満谷国四郎

●開催概要

会 期2024年12月24日(火曜日)から2025年2月2日(日曜日)まで
開館時間9時から17時
・1月25日(土曜日)は19時まで夜間開館
・いずれも入館は閉館30分前まで
休館日月曜日(1月13日は開館)、年末年始(12月28日~1月4日)、1月14日
観覧料一般:350円、65歳以上:170円、大学生:250円、高校生以下:無料
学生証やシルバーカード等、年齢が確認できる証明書をご提示ください
キャンパスメンバ―ズ制度加盟校の学生は無料
※障がい者手帳もしくはミライロIDをお持ちの方とその介護者1名は無料
◎同時開催の「岡山の美術展 4」もご覧いただけます。
会 場地下展示室
主 催岡山県立美術館


満谷肖像 生誕150年を迎える満谷国四郎みつたにくにしろう(1874-1936)は、現在の総社市に生まれた画家です。中学在学時に松原三五郎まつばらさんごろう(1864-1946)にその画才を認められ、上京後は初代五姓田芳柳ごせだほうりゅう(1827-1892)と小山正太郎こやましょうたろう(1857-1916)に学びました。明治時代の後期には若手有望作家として注目を集めます。明治44(1911)年から大正3(1914)年まで欧州に旅行しました。そのあと写実的な作風から装飾的な作風へと移行します。
 当館は平成5(1993)年に満谷国四郎の個展を開催しました。そのあと複数のご所蔵家より作品のご寄贈と作品のご寄託があります。油彩画のほか、掛軸や屏風に描かれた日本画、そして雑誌に掲載された挿絵が含まれています。平成20(2008)年8月26日から10月3日まで、収蔵品展示「満谷国四郎-新収蔵品と雑誌挿絵をまじえて」を開きました。今回は第2篇として、平成21(2009)年度以降の収蔵品を含めて紹介します。
 

裸婦

第1章 明治時代-若かりし頃

 幼少の頃、親戚であった堀和平わへいの制作に触れ、小学校時代には吉富朝次郎あさじろうの教えを受けた満谷は、岡山中学在学時に、図画教員であった松原三五郎にその画才を認められました。そして明治24(1891)年に上京し、松原自身も学んだ初代五姓田芳柳の門下となります。しかしながらその翌年に初代芳柳が没したため、小山正太郎が主宰する画塾「不同舎ふどうしゃへと移り、そこで研鑽を積みました。やがて明治31(1898)年に開催された「明治美術会創立十年紀念展」では、出品作《林大尉戦死之図》(皇居三の丸尚蔵館)が宮内省買上げとなるなど、次第に若手有望作家として注目を集めます。満谷は不同舎の仲間とともに、太平洋から米国経由で渡欧(1900-01)しました。旅行で見聞を広めた満谷は帰国後、明治美術会の流れを汲む「太平洋画会たいへいようがかい」の創立会員になります。明治40(1907)年に設置された「文部省美術展覧会」(文展)では審査委員に任命されるなど活躍しました。
 小山ゆずりで色調は落ち着いていて写実的な作風です。人物像や風景画のほか、《かぐや姫》(笠間日動美術館、1909)では物語を題材にしています。また《車夫の家族》(東京藝術大学、1908)のように、同時代の風俗を描く作品を多く描きました。
 令和5(2023)年度には《海岸風景》(1893-95頃)、また遡って令和元(2019)年度には《裸婦》(1895)[右図]を受贈しました。いずれも不同舎にいたころの作品です。後者は油彩による初めての大きな裸婦像であると思われます。

《裸婦》 1895 岡山県立美術館蔵 2019年度寄贈

 

第2章 大正時代-画業の変化

 明治44(1911)年から大正3(1914)年までの第二回渡欧を機に、時事や物語、風俗を描くことがなくなり、風景や裸婦像を多く制作するようになります。暗い色彩による写実的な作風から平明で装飾的な作風に変わるなど、画業は大きく変化しました。
 滞欧当初は、不同舎にいる他の画家たちのように、パリの画塾「アカデミー・ジュリアン」でのジャン=ポール・ローランス(1838-1921)の教室に通います。しかしやがてこの画塾を去り、写実的な作風から次第に離れました。ルノアール(1841-1919)などの印象派、またセザンヌ(1839-1906)などのポスト印象派、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898)、そしてドニ(1870-1943)ほかナビ派の画家たちなど、フランス美術における多くの動向が、満谷に大きな影響を与えます。
 《海の風景》と《スペイン コルドバ風景》、《裸婦》は滞欧期の作品です。帰国後の《鏡を見る女》では輪郭線が強くなり、横顔はいくらか平面的です。《瀬戸内海風景》では水平線が画面上部にあり、奥行きが感じられません。穏やかな晴天で、多島のなかに帆船が行き交う瀬戸内海の典型美を表現しています。《木々の秋》では、湖に接した木々のなか、裸婦の群像が描きました。裸婦は明るい色面で、また輪郭は明瞭で、形は単純化されています。

鏡を見る女
《鏡を見る女》 1916 岡山県立美術館蔵 2014年度寄贈
瀬戸内
《瀬戸内海風景》 1917 岡山県立美術館蔵

 

第3章 大正~昭和時代 アジアへの眼差し/女性への眼差し/洋画と日本画

 沖縄や中国を旅行したときに描いた風景画を紹介します。満谷は大正12(1923)年から、13年(1924)と15年(1926)を経て、昭和4(1929)年まで四回訪中しました。油彩画を身につけた日本人画家にとって、西洋の亜流ではない日本人独自の油絵を描くことは共通の課題でした。満谷だけでなく多くの洋画家がアジア各地で制作しています。そこでは西洋人の模倣でない作品を追求しました。
 《臨江甘露寺(鎮江)》では、見下ろすと長江があり、甘露寺の建築は空の高みへと積み上がり、手前の通路は建物をくぐって内部に続きます。ここでは、平遠、高遠、深遠という東洋画の遠近法が認められます。また木の筆づかいは東洋画のようです。満谷は独自の判断で、東洋画の動向を大胆に取り入れながら、アジアの風景を描いて、油彩画の新境地を開こうとしました。
 そして女性像を紹介します。第二回渡欧以後の満谷は、平明で装飾的な絵画を一貫して追求しました。次第に描く人物画は女性像へと収斂します。装飾的でありながら触感豊かに日本人の女性を描きました。《朝の身仕舞》を見ます。朝顔が咲いているので季節は夏です。着物姿の女性は黒髪を手入れしながら鏡を見ます。女性の肌は明るい黄土色です。
 最後に日本画を紹介します。満谷は展覧会で日本画を発表していません。自らの手すさびで、あるいは人からの依頼で日本画を制作しました。洋画家の日本画は余技的と言われますが、《蘇州風景》のような力作もあります。洋画と日本画を、どのような心づもりで同時に制作したのでしょうか。この点が興味深いです。

蘇州風景
《蘇州風景》(左隻)
蘇州風景
《蘇州風景》(右隻) 1926 岡山県立美術館蔵 2019年度寄贈

 

●関連事業

美術の夕べ

担当学芸員によるフロアレクチャー

日時:2025年1月25日(土曜日)
18時から18時30分
会場:地下展示室 ※要観覧券
講師:廣瀬就久(主任学芸員)